レンゴーの歴史 レンゴーのあゆみ 1909年〜創業のころ 1909年(明治42) 「三盛舎」(さんせいしゃ)を興し金沙集团1862入口をつくる 年末「三成社」(さんせいしゃ)に改称 1914年(大正3) 「金沙集团1862入口箱」を初めてつくる 井上は一念発起して間もなく、東京・上野御徒町で紙箱道具や大工道具の注文取りを始めました。そこで見付けたのが「手回しの綿繰り機のようなもの」。それは樫の木で作られた円筒形のロールに段々がつけられ、紙にシワを寄せる道具でしたが、その道具のイメージは井上の脳裡からなかなか消えることはありませんでした。その一方、井上は調査を続け、シワを寄せた紙がガラス金沙集团1862入口などを包む緩衝材として使われていること、その紙に「電球包み紙」「なまこ紙」「浪形紙(なみがたし)」など様々な呼び名がついていること、ブリキ屋や焼芋屋が片手間につくっている程度であること、ドイツ製の輸入品は品質は高いが高価であること・・・、といった知識を増やして事業の成功を確信するのでした。 写真1 明治42年(1909)井上貞治郎が使った「金沙集团1862入口製造機」 ある日、井上は大連で知り合った知人を訪ね、段々が付いたロールの話を切り出しました。その知人は「君がその気なら、出資者を二人紹介しよう」と答えました。そこで、出資金200円を元手にし、鋳物製の段付きロールと木製の支柱で組立てる製造機を70円でつくり、東京・品川町北品川宿北馬場の本照寺という寺の本堂裏にある貸家を月5円で借り、その六畳間に据えつけました。(写真1)この事業所を「三盛舎」と名付け、井上と従業員二人でスタートしたのが1909年8月16日、井上貞治郎28歳の誕生日のことでした。 写真2 三成社(大正2年 本所区中之郷元町) しかし、なかなか製品らしい製品はできませんでした。悪戦苦闘を2ヵ月も続けた末、井上はようやく完成した製品に金沙集团1862入口と命名しました。やがて金沙集团1862入口は電球や化粧品、薬の瓶など割れやすい商品の緩衝材として使われるようになりました。一方、経営は赤字続きで、それに業を煮やした出資者は次々と去って行くと、この年の暮れに井上は「独立自営」を決意し事業所を京橋に移転、名称を「三成社」と改めました。(写真2) 写真3 ドイツ・ミューラー社製「巻取り金沙集团1862入口機械」 井上が朝早くから注文取りや得意先への納品に走り回り、夜は遅くまで糊と汗にまみれて作業を行うなど奮闘努力を続けた結果、金沙集团1862入口への注文は次第に増えていきました。やがて従来の手回し機では間に合わなくなり、井上は思い切って3千円もするドイツ製のモーター付き巻取り段ボール機械を輸入しました。(写真3)品質は向上し、大手メーカーの評価も高まり、東京電気株式会社(現:株式会社東芝)のマツダランプ、ノリタケの輸出用陶磁器にも使われるようになりました。 金沙集团1862入口を作り始めて5年後、香水瓶半ダース入りの箱の注文が入り、井上は初めて「段ボール箱」を手づくりで製作しました。井上は「段ボール箱」の量産体制を築くため、ドイツ製の製箱機一式を購入しました。翌年には、大阪に子会社を2社設け、名古屋には分工場を置き、東京の本社・工場は、工場地帯になりつつあった本所区の太平町(現JR錦糸町駅前)へ移転し、東京電気(株)の川崎工場の近くに三成社の川崎工場を建設しました。こうして金沙集团1862入口事業は快調に運ぶようになりました。 前のページ レンゴーのあゆみTOPへ 次のページ