レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    水原・大連

    昼は炭屋、夜はうどん屋 「美文之資料」で就職依頼状

     水原の駅の近くをうろついていると、朝鮮人小屋の中で日本人らしい老人と娘がドラ焼きを売っていた。私はふらふらと近寄って声をかけた。やっぱり日本人である。むこうもなつかしがって話に乗ってくる。しまいにはしんみりとお互いの身上話となった。老人は山口県の人で、以前は相当な暮しをしていたとか。こちらから切出さない前に「お困りならここへお泊りなさい」と、しきりにすすめてくれる。で私も当分の間、その好意に甘えることになった。

     私は見よう見まねで稲荷ずしや、巻ずしを作り、娘と二人で大倉組の土木場などへ売りにいったりした。また京城で鼻のかけた男がやっていたのをまねて、アン巻きの道具を作り、朝鮮人の部落に売ることも始めた。

     「イコ、オルマニ?」一個いくらか、というのである。
     「スーニャンヌートオップン」。二厘五毛と答えるのだが、なかなかよく売れた。しかもこうして娘といっしょに出かけるのを、老人がやき始めた。年がいもないと、思いながら気をつけてみると老人と娘とは夫婦なのである。おまけに赤ん坊までいるのだ。

     全くうかつである。まさか赤ん坊が老人の子とは気がつかなかった。国もとで近所の娘か、女中をはらませ、世間に顔むけできず、水原まで流れてきたものらしい。こうなれば長居は無用である。私は早々に礼をいって大連に渡るべく平壤の西方の港、鎮南浦に向け、汽車に乗った。

     鎮南浦への汽車の中で、たまたま隣に座った三浦という人から「大連へいったら英組の菊本を頼ってごらんなさい」と教えられた。あてのない大連行きだけに、私は早速その菊本をたずねる気になった。鎮南浦から神代丸に乗って大連に着いた。大連は当時「ダルニー」と言い、ロシア風の予想外の大都会で、やたらに赤れんがの建物が目についた。放射道路の石畳の道を馬のひずめを響かせてマーチョが行き、支那人のひくヤンチョが通る。アカシヤやポプラも美しい。しかしめざす英組の菊本氏は旅順の谷口組に移ったとかでいなかった。心からあてにしていただけに落胆も大きかった。だが仕方がない。私はつてを求めて昼は炭の行商を、夜はうどんの屋台車を引っぱることにした。昼夜兼行で働かなければ、とても食っていけないからである。

     炭売りは別にむずかしいこともないが、うどん屋はなかなかつらかった。夜、大連市中の日本橋のたもとに立って、りんを振っていると、汽車が走りながら鳴らすカランカランという半鐘の音がきこえてくる。はだをさす寒風が吹きつのって手や顔はむしろ痛く、私が振るりんの音までが凍りつくようであった。そんなとき、うどんを買ってくれた客から、「悪いことはいわないから、夜の商売だけはおよしよ」ときかされたのは妙に心に残った。そうだ、うどん屋をやめよう。といってそれでは生活できない。そこで私は旅順の谷口組にいる菊本氏に使ってくれるよう依頼の手紙を書くことにした。

     しかし私には菊本氏の心を動かすほどの文才はない。一策を思いついた私は夜店の古本屋をあさって、五銭で「美文之資料」という豆本を買ってきた。その中の文章でいいところを抜き出して組み合わせ、一大美文を作り上げようというのである。苦心の末完成したのは「いまだ拝眉の光栄を得ざる貴下に……」といった調子のもので、われながらみごとな出来であった。案の定、菊本氏からは「やってこい」との短い返事が届いた。

     あすは旅順をたつという晩、私は常盤公園のベンチに立って同じうどん屋仲間を集め、別れのあいさつをかねて大演説をぶった。

     「諸君よ、すべからく夜の商売はやめるべし。夜の商売にロクなものはないのである。そもそもこの異郷の天地へきて、うどんの屋台をひくとはなんぞや……」。
     「ヒヤ、ヒヤ」
     「いま、わがはいは、大志を立てて旅順に行かんとす」
     だいぶ「美文之資料」にいかれていたようである。もっとも一つには彼らを勇気づけるために、日ごろの考えをぶったまでであるが、うれしくなるとすぐお調子に乗るのが私の癖らしい。

     ともかく私は喜び勇んで大連を後に、旅順へ向かったのだった。