レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    香港へ渡る

    クーリー船の人買い男 宿賃に窮し、身体を売る覚悟

     島貫兵太夫氏のチベット入りの一行に加わっていたら、それ以後の私の半生はずいぶん変ったものになっていたろう。それはともかく私はチベット行きができなくて残念でたまらなかった。島貫氏一行が泊っていた虎屋旅館に無料で厄介になり、あくる朝、「広大号(かんだいごう)」という千トン足らずの、中国人の苦力(クーリー)を運ぶ船に乗込んだのである。船は広東行で九竜で下船し対岸の香港へははしけで渡るわけだ。船賃はたしか二円で、食事なしである。広大号を選んだ理由は、中国船に乗れば苦力同様パスポートがいらないし、第一船賃がうんと安かったからだ。

     乗ってみると、なるほどほとんどが苦力ばかり。日本人もほんの少しはいたが、彼らは西豪州へ真珠貝取りにいく出かせぎ人たちだ。苦力はみんなこうりゃんの大きなパンを持参していたのだが、私はもとより食事の用意がない。真珠貝取りの日本人のしり馬に乗って英人の船長に米と塩をせびり、かろうじて飢をしのいだ。そんなどれい船のような広大号に、はなはだ人相のよくない、五十五、六のはげ頭の日本人が、年ごろの娘を連れて乗っていた。これが人買いの阪大佐太郎(ばんだいさたろう)だったのである。

     二、三日の航海だった。九竜から二十銭のはしけに乗って香港の港につくと、旅館の番頭たちが、旗を立てて、声やかましく客引きにきている。私は人がきのうしろから、まっさきに目にはいった旗の名を大声で呼んだ。

     「おい松原旅館。泊ってやるぞ!」
     私は大手を振って、ペコペコ頭を下げる番頭をしり目に馬車に乗込んだ。
     「部屋は中ぐらいでいいよ」とすべておうようである。ふところの中は相変らずの無一文なのだが、いかにも金がたんまりあるかのように泰然と落着くことにした。

     しかし最初から無銭宿泊のつもりではなかった。なんとかせねばいかん、なんとかなるだろう、という気持だった。もし万策つきれば、この体ひとつ売ってでも始末をつけよう、と最後の腹は決めていた。

     あくる日から私は町を歩いてここで石炭屋でも始めようか、などと考えた。宿の方ではどうやら、「あやしいやつ」と目をつけ出した様子である。いよいよこづかい銭にも困ってきたので、有名な香港の泥棒市場で、持っていた銀の懐中時計を二円で売った。

     こうして戦々恐々としているある夜のこと、隣の座敷のひそひそ話が気になり、ふすまごしに聞き耳を立てると、聞いた声と思ったのも道理、広大号に乗合わせた人相のよくない男と娘らしい。そして二、三日するうちに娘の姿がみえなくなった。

     「やっぱりそうか」と私は自分のひざを打った。男は人買いなのである。娘をゆうかいして、シンガポールあたりの黒人のめかけに売飛ばして二、三千円の金にするのだ。

     一方宿からは毎日矢のような宿賃のさいそくだ。ついには領事館に突き出してやる、といわれて私も心を決めた。

     「それほどいうなら、この体で宿賃を払おうじゃないか」とっておきの切札である。番頭は引下がった。あとから西豪州の真珠貝取りにいってもらおうという。英人の経営で、年期をきって身を売るのだそうだ。それもよかろう。-しかし、その夜ふろにはいって、相ぶろの人に「あしたフランスメイルで西豪州へゆきますのや」と、得意顔でいうと相手は顔色を変えた。

     「そりゃいかん!それはね英人にきびしく監視されて、海底深くもぐり貝をとってくるのだが、逃走を防ぐため一年ぐらいは陸にあげてもらえず、十人おれば、三人は死ぬ仕事なんだよ」

     これはえらいことになった。私は部屋に帰って考えた。どうにかこの場を切り開かなければならない。どうにか……と思いつめているうちに、私は自分がもう日本に帰る時期にきているのを感じた。

     「やってみよう」一種のカケである。私はわらでもつかむ気で、隣の座敷の人買い男に頼んでみようと思いついた。人間は追いつめられるほど強くなれる。私は意を決して身づくろいすると、隣の座敷のふすまに手をかけた。