レンゴーの歴史 私の履歴書井上貞治郎 家庭こそ「トリデ」 苦しみを楽しむ境地 冥途の迎えおことわり 晴代夫人とともに 夢のようにすぎた八十年であった。私はいま七十九歳。戸籍面は明治十五年生れだから七十八歳、現代風に満で数えると七十七歳。ややこしいことである。 人に比べれば、波乱の多い青春時をすごしたが、いまから思えば、私は波乱の中での経験をはだで受取り、自分の生きるための糧とすることができたのは幸いだった。ただ残念なのは、二人の息子がすでに他界したことである。二男賛次郎は大戦中陸軍大尉の資格で糧秣厰(りょうまつしょう)に通っていたが、疲労のため昭和十九年四月八日病没。長男庸太郎も昨年三月十四日に病いで失った。二人の息子の生母とも別れ、大正末から世帯を持ったいまの妻と二人きりの生活である。もっとも孫が六人おり、この成長が楽しみだ。 苦しかった青春時代を通じて私が得たのは、最初にも書いた「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の雑草の根強さであり、二畳の座敷で考えた「良心に従って全力をつくして働き、気になること一つもなく、ぐっすり眠れるようになろう」との気持はいまも生きている。 しかし私はいま幸せだ。なぜならおりにふれて追憶し、楽しめる「苦しかった過去」を持っているからである。苦あればこその楽しみだ。苦しみを経た者しか、真実の喜びは味わえないと思う。 いろいろ女の話が出たが、最後にいまの妻の話をしよう。名は晴代と言い、私より十下のばあさんである。大正末に大阪の天下茶屋で世帯を持ったのだが、島之内の紙屋の娘で、前に書いたお雪を知るより前、妻が七つぐらいのときから知っている仲だ。「女房もらえば女工代が助かる」とへらず口をたたいた私だが、本心はやはり家庭が第一と思っている。家庭をうまく治められない男に仕事ができるはずがない。私の家庭といってもたった二人きりの生活だがしごく円満である。それにいま初めて書くことだが、私がこれまで会った女のなかで、残念ながら、いまの妻ほどの者を見たことはない。七十九にもなっていまさらのろけるわけではないが、こんな話もあった。 私が大阪に住むようになってからのある日、東京の柳橋のお利枝という女がやってきた。これは大した美人で、当時の上流の社交界の花形。度胸もあり、弁舌もさわやかな頭のいい女だった。これがダイヤの指輪などをキラキラさせながら、飛行機に乗って私に「金を貸してほしい」といってきたのである。普通のしろうと女が太刀打ちできる相手ではない。しかし私は多少ためす気もあって、わざとかくれ、妻に応対させたが、とてもだめだろうと内心では思っていた。ところが妻はみごとにお利枝をさばいて、一銭も渡さずに東京へ追い返してしまった。みごとな腕前である。これには私もかげで大いに見直したものであった。もっとも世の中で理想の女房、あるいは夫というようなものはない。夫婦はむしろお互いが作るものなのだ。そんな意味もあって、私は太ってすっかり出無精になった妻を仕事や旅行にも引っぱり回し、私と同じように見聞を広める機会を与えるようにしている。放浪を続けた私だったが、いまさらのように、家庭こそ、夫婦が力を合わせて築いていくべき「トリデ」だとつくづく思うのである。 だが私は過去の追憶にばかりふけっているのではない。会社の部屋に日本地図を広げて、たこの足のように八方へ伸びていく聯合紙器の未来図を描くのに忙しいのだ。私の後進たちが、存分に活躍できる舞台を用意するのがこれからの仕事でもあろう。私は農家の一少年として生まれ、だれに頼ることなく、野中の一本杉として生きてきた。いまは妻と二本杉というところだが、二人は一体なのだからやはり一本杉といわせてもらおう。そしてこれからもこの一本杉は伸びなければならぬ。だからもし冥途(めいど)から迎えにきたら、八十八を越してからいく。八十八を越してからまた使いがきたら、九十九までは留守と答えよう。留守なら帰りを待つというのなら、いっそいかぬと言い切ってやれ。かつて若い貞吉をかり立てた並みはずれて大きい野心の炎は、いまでも七十九の老人の心に燃え続けているのである。 前のページ