レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    支那料理屋をクビ

    トラの子の七円なくす 東京から横浜へ逆もどり

     「インヤホー・パッセー」なんの意味かわからないが、二階の客の勘定を下へ伝えるときに聘珍楼の主人はこうどなる。ここの主人は広東人だった。支那料理屋の店は活気があるが全く騒々しい。日本女の仲居は二、三人いたが、ほかに日本人といえば私だけだった。支那人はみんな弁髪で、生活は彼らと同じようにさせられた。

     私の仕事は出前持ちに皿洗いぐらいのものだったが、食事はみんな客の残り物を食わされた。ここを教えてくれたくず屋の話では月給は三円のはずだったのに、二円五十銭しかくれない。そのうえ、ふとんが賃借りなので、手元には二円しか残らなかった。

     支那人は日に二食である。これは発育ざかりの私にはこたえた。一日中追い回されるので腹の減ることおびただしい。

     そこで目をつけたのは支那人の寝ているベットの下に置いてある梅酒や老酒のかめである。

     「チャー、 ポー、 ファン」。支那人たちはケンを打って、日本とは反対に負けた方が酒を飲む。しかし夜半ともなれば、南京町の灯も消え、家人もようやく寝静まる。そんなころを見はからって私はそっと起き出してかめの中のしゃくに手をかける。息を殺し、全神経を集中しないとブリキのしゃくはカーンとカン高い音を立てる。そろそろとまっすぐにすくい上げ、用意しておいた茶わんに注ぐのである。

     足音をしのんで寝床に帰ると、これも夜の皿洗いのときに失敬しておいた卵をソバ湯の残りでゆで、寝そべりながら夜食の味を楽しむわけだ。「一日の労苦は一日で足る」。悪いこととは知りつつも、この酒と卵の盗み食いほど楽しいものはなかった。そのころ私はよくひまがあれば横浜の波止場へいった。桟橋に立って思い切り深呼吸をし、巨大な外国船の姿やかもめの飛びかう紺ぺきの遠い海をながめながら、さまざまの空想を描くのだった。十六歳の私の胸は洋々と開けるはずの、限りない前途への期待におどるのだ。

     しかし給料については、最初の約束と違うので私は不平満々である。ただちょっとした抜け道はあった。支那人のコックたちはよく女遊びに出かけるが、帰りはいつも朝方になる。帰ってくると「アマン、アマン」(おいボーイ)と私を起すのだが、私がねむい目をこすりこすり戸をあけてやるとだまって五銭か十銭の白銅をにぎらしてくれた。またビールの空びんや割れた皿などをこっそり例のくず屋に売って小金をためる手も覚えた。

     だがある日、すずのへちゃげた皿をくず屋に売るところを、支那人の店員に見つかった。カンカンになった支那人は「すぐ出て行け」という。しかしそこはさすがに支那人で、月給を日割り勘定で一円八十銭くれたのには感心した。こんどは私も文なしで横浜に出てきたときほど心細くはなかった。なぜならそのときためておいた金が、すでに大枚七円にもなっていたからである。

     「金もあるのだから、ひとつあこがれの東京へいってやれ」と思いつくと、矢もたてもたまらず、その日のうちに汽車に乗った。新橋から上野まで馬車鉄が走っていたころの東京である。私はそれには乗らず、鍛治橋から二重橋へ向かい、うやうやしく宮城を遥拝した。

     上野の博物館へはいって、出てからふと気がつくと、がま口がない。中にはあのトラの子の七円がはいっているのだ。うろたえた私は体中を探ってみたが、やっぱりない。落としたのか、すられたのか。私はただおろおろするばかりである。七円の中には聘珍楼でのくず代という悪銭がはいっているのだから、それは仕方がないとしても、少なくとも半分はまっとうな金だ。良銭まで悪銭が道連れにしたのだから実に惜しい。のちに私は苦心して建てた工場を関東大震災や戦災で失ったが、この七円のがま口ほどなくして惜しいと思ったことはない。しょんぼりと歩きながら考えたが、いまさら聘珍楼に帰れた義理でもない。

     ふと思いついたのは、いつもいっていた銭湯のことである。そこのおかみさんが、いつもやさしい言葉をかけてくれたが、もうそこしか頼るところはない。こんどは徒歩である。へとへとになって横浜の銭湯についたのは、夜の十時をとっくにすぎていた。