レンゴーの歴史 私の履歴書井上貞治郎 職業遍歴 三日と続かず次々に 「三助」から「扇風機の代役」も 私がおかみさんに泣きついて三助に雇ってもらった銭湯は「石川湯」というのであったが、この家の仕事はかなりつらかった。夜は客の衣類入れの世話をし、昼は昼でほうぼうの建築場からたきつけを集め、荷車に積んで引いてくるのである。あまり体がつらいのでいつも湯にはいりにくる顔見知りのいきなねえさんに頼むと 「じゃ、うちへおいでよ」 との返事だった。多少の好奇心も手伝い、教えられた居留地の家へ出向いた。入口にはラーレス・ハウスの看板が出ている黒人相手のいかがわしい酒場である。ねえさんは店主の黒人のおめかけさんだったのだ。すすめられるままに泊ろうとすると、驚いたことに主人の黒人は男色家らしく、変なことを言い寄ってくるので「これではたまらん」と逃げ出した。 次の日、私は元町の木村屋というパン屋に雇われた。なにしろ当時はビスケットなどめったに口にしたこともない珍菓だったので、すきをみて私はビスケットを腹ぞんぶん食った。ところが一日好きなだけ食いまくったら、つぎの日からは見るのもいやになる。あとできいた話だが、製菓工場の工員や菓子屋の店員は、初め私と同じようにするそうだが、それからはピタリと菓子を食わなくなるという。すきを見て食ったつもりが、ひとつは店主の新参教育法にかかっていたのかもしれない。 しかし、ここもすぐやめた。床屋に勤めている顔なじみの山田という男にすすめられて、床屋の見習いとして住込んだわけだ。もっとも三年の年期を入れるには親の判がいるので、国へは手紙で頼み、私はそれまで臨時の住込み店員の形であった。まず私に与えられたのは、いわば当時の扇風機のモーター代りの役目である。分厚いどんちょうの端からたれ下がっているひもを、次の間からひいたり、ゆるめたりする。するとちょうど客の頭の上でどんちょうがパタパタとゆれ、涼しい風を送るという仕組みなのだが骨が折れるばかりでたいした効果はなかった。 間もなく国の親から返事が届いた。案に相違して「床屋などに勤めるのはまかりならぬ」というきつい文面である。そのころは床屋といえば、ちょっと格の落ちる仕事とみられていたので、無理もなかった。私も考えなおした。こんな落着きのない日を送っていては取返しのつかない気もしてきた。こうなるともうじっとしていられないのが私の性分である。少しのたくわえがあったのと、足らぬ分は着物を向いの質屋へ二円で入れて早々に横浜をあとに大阪へ帰ってきた。汽車賃はたしか四円ぐらいだったと覚えている。 横浜から舞い戻った私は、もと家に出入りしていた大工で、大阪の新町でメガネ屋兼幻灯屋をやっていた寺田清四郎氏に身元引受人になってもらった。こうしたれっきとした引受人があるからには、少しでもいい店で働きたいものだと、私の欲も大きくなった。口入れ屋を通じてまず行ったのは堺筋の砂糖屋、次が心斎橋の洋服屋だったが、どれも三日と続かずじまい。砂糖屋はあまりに労働が激しすぎ、洋服屋で一日中すわって店番するのはなお一層つらかった。 もっとも三日と続かなかったのにはほかに理由もある。当時の習慣で、口入れ屋から行くと三日間のお目見えがあり、三日間でやめると手数料がいらない。三日をすぎると主人と本人とが半々の出し合いで口入れ屋に手数料を払うのである。私のやり方もひとつは手数料節約の意味もあったわけだ。 次に行ったのは室谷佐兵衛、室佐という四ッ橋の材木屋で、ここはしばらく続いた。私は松吉と名づけられたが、お家さん(奥さん)から、「松吉や、なでさん呼んどいで、それからついでにかきをこなから買うといで……」といわれて、当時大阪では「なでさん」がアンマさんで、「こなから」が二合五勺のことであるのを初めて知った。結局ここもおさらばして問屋橋にある板問屋の俵松に住み変えた。板問屋の労働は激しかった。日のあるうちは浜から倉庫へ板をかついで運ぶのだ。 筋肉労働にはあきがくる。私は筋肉労働ではない仕事をしてみたいものと商売を物色していたが、ある日、新聞の経済欄に載っている物価表に目を通すうち 「これだ!」 とひざをたたいたのは石炭屋である。そのとき私は十七歳になっていた。 前のページ 次のページ